(1)
心療内科の診察が終わると、医師が志保に言った。
「もっと自分を大事にしてあげて」
黙って聞いていたが、「もっと自分を大事にしてあげて」と言われても、正直なところ志保には「自分を大切する」とは、どう言うことなのかわからなかった。
「そんなこと言われても、どうしたらいいかわからない!」
と少し腹を立てた。処方箋を持って薬局に行き、逃げるようにタクシーに乗って家に帰った。バスに乗る元気がなかったからだ。
(2)
鬱を患って4年経った。急性期の辛い症状は脱したけれど、すっきりできずに病気は一進一退を繰り返していた。自宅に着くとすぐにパジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。
考えてみると診察日以外は、志保は一日中パジャマを着てベッドでゴロゴロ過ごしていた。身体がだるく何をする気にもなれないのだ。
睡眠のリズムも失って、人が寝ている時間に起きて、人が起き出す時間に眠る昼夜逆転の生活に陥っていた。身なりを気にする意欲もなく、髪はザンバラ、肌はガサガサだった。
(3)
そんなある日、めずらしく志保はいつもより早く起きることができたのだ。なんとか「朝」と呼べる時間だった。
丁寧に顔を洗って、洗面所の鏡を見ていると、肌の手入れをしてみる気になったのだった。と言ってもコットンを使って丁寧に化粧水や乳液をつけただけだったのだが。
意外にも、肌がしっとりしたようで少し気分が良くなった。思い切ってバサバサの髪もブラッシングして、サイドアップに束ねてみた。
髪を束ねると、顔が少し寂しく感じたので、メイクもする気になった。ファンデーションを薄く塗って、眉を描き、口紅をつけると、目に光が出たのだ。
うれしくなって、お気に入りのワンピースを着てみる気にもなったのだった。
(4)
気持ちが良くて、頭もスッキリしたように感じた。
その上、天気も良く外は明るい。いつもは人に会うことが怖くて、玄関先にゴミを出すのすらイヤなのに、外に出てみる気になったのだ!本当に不思議だ!
外に出ると、いつもは軽く目礼するだけの隣のおじさんに「志保さん、お出かけですか?」と声をかけられた。
バス停でバスを待っていると、知らないおじいさんが「そこは風が強く吹き付けるから、こっちでバスを待ちなさい」と待合室から言ってくれたのだ。
前から一度行ってみたかった美味しいと評判のパン屋さんで噂のミニクロワッサンを買うと、おにいさんが内緒で1つおまけしてくれた。
(5)
なんだかみんながいつもよりずっと丁寧に志保に接してくれたのだ。志保を大事にしてくれた。
「私は自分の肌や髪や服装のような小さな手間も自分にはかけてこなかった。誰よりも自分を粗略に扱っていたのは他でもない私だったのね・・・」と志保は思った。
自分の肌や髪や身体を労ってあげる。自分の好きな物で自分を飾ってあげる。自分の好きな物を買ってあげる。自分の行きたいところへ自分を連れて行ってあげる。
「自分を大事にするとは、そんなに大げさなことではないようだ」と志保は気づいたのだった。
(6)
「なんだ~!『自分を大事にする』って私が考えていたほど難しいことじゃなかったのね!」と志保は思った。
志保はパン屋のおにいさんに1つおまけしてもらったミニクロワッサンを一つ取り出して食べた。とても美味しかった。
小さなことからでいいから、自分を大事にしてあげようと思った。きれいにメイクして、お気に入りのワンピースを着て、自分を大切に思い始めた志保の笑顔はとてもチャーミングだった。
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