掌編小説:封筒

数年前、私はふと思い立って、近所の書道教室に通うようになった。書道教室の先生は高校の書道教師を20年近く勤めた後、退職して書道家になった中年の男性だ。この先生、明治の文学青年のような風貌のちょっといい男だ。

 

先生の指導は真剣で熱心だった。教室にはサロン風の優雅な雰囲気は、まるでなかった。書道教室に通い始めた頃の私は、墨をするのが面倒だし、足がすぐにしびれるし、やっと擦った墨が手につくし、本当に散々だった。

 

でも、墨の香りが漂う教室で、一心に筆を運び、練習を重ねるうちに、いつの間にか私は書道の魅力の虜になっていた。

 

<品の良い封筒>

先生の厳しい指導についてくる生徒は、メキメキと腕を上げ、上達して行った。

 

サロン風の華やかな雰囲気はない教室だったが、生徒の大半は女性で、ほとんどの女生徒は先生にイカれていた。かく言う私も、先生に憧れのような、尊敬のような、恋心のような、微妙で複雑な思いを抱いていた。

 

ちょっとクラシカルな雰囲気の先生の教室は、授業料の納入方法も非常にクラシカルで、封筒に現金を入れて、先生に直接手渡すのだ。

 

ある日私は、上品な美しい生徒さんが、品の良い上等の封筒を先生に渡されているのを見かけた。なんだか恋文でも渡すような、重々しい雰囲気があったように思う。

 

  

<なんだ授業料か!>

書道教室に入ったばかりの頃、私が茶封筒に授業料を入れて先生に渡すと、先生は「茶封筒がもったいないから、銀行の封筒でいいよ」と言われた。それ以来、私は授業料をずっと銀行の封筒に入れていた。

 

ある時、銀行の封筒を切らした私は、たまたま家にあったちょっとオシャレな水玉の封筒に授業料を入れたことがあった。

 

その日、教室に行ったのは私が最初だった。「先生、これ…」と言って、先生にオシャレな水玉の封筒に入った授業料を渡した。

 

 

その時、先生はギョとしたような表情になって「何これ~~!?」と言われた。言われた私も一体何事かと思って驚いた。

 

「あの…授業料です。銀行の封筒がなかったので…」と私が言うと、先生は上がった肩をドッと下げて、「なんだ!授業料か…」と言われた。

 

先生のあの狼狽は、何だったのだろう?そしてドッと下がった肩は何だったのだろう?

 

<くすぐったい可笑しさ>

それからも私は熱心に書道教室に通いた。書の腕もずいぶん上がった。授業料は毎回銀行の封筒に入れている。でもたまに、水玉のオシャレな封筒を見かけると、あの時の先生の驚きと狼狽を思い出す。

 

「あれは何だったのかな?」と言う思いと一緒に、くすぐったいような可笑しさが、こみ上げて来るのだった。

 

・・・・・・・・<完>・・・・・・・・

  

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