普通の人の激動の人生を文章に!

「100人の人が居れば、

100通りの激動の人生があるんだな!」

最近、強くそう感じるようになった。

 

私がそう感じるようになったのは、

私の本がキッカケで叔父や叔母から、

母の幼い頃の話を

聞くことが出来たからだと思う。

 

私は34才で結婚するまで

両親や弟と一緒に暮らしていた。

母はごく普通のお母さんだった。

 

ところが私の本がキッカケで

叔父や叔母から母のことを聞くと、

母の人生は時代や環境に翻弄された

波乱の人生だったということを知った。

 

 

✿貧しい少女時代✿

 

母は貧しい開拓農家に生まれた。

 

私が子どもの頃、

母から自分の子供時代のことを

聞いたことを微かに覚えている。

 

当時、母の家には水道も電気もなく、

カーバイドランプを使っていたこと、

全ての部屋に畳があるわけでなく、

少しずつ収入がある時に畳を買ったこと、

井戸は豊かではなく金気があったこと、

そんな話を聞いた記憶がある。

 

叔母から聞いた話によると

戦争中、母たちは親元を離れて疎開し、

疎開先でいじめられて辛い思いをしたようだ。

 

敗戦後、母は中学を卒業すると、

愛知県の一宮市の毛織物工業で

8年間働いていたと言う。

母は僅かな小遣い以外は、

全て親元に仕送りしていたと聞いた。

 

書いてしまうと5行だが、

15才の少女が親元を離れて、

収入のほとんど全てを親元に送って、

23才まで過ごしたのだ。

 

 

✿美人だけれど楽しそうではなかった✿

 

美人で働き者だった母には、

求婚者がたくさんいたらしいが、

母は見向きもしなかったと叔母に聞いた。

 

母は親の決めた相手(父)と見合いをして

気難しく頑固な姑がいる家に嫁いだ。

 

嫁いで来た母を見た近所の人が、

 

「えーちゃん(父)は、

鶴のような綺麗な人を嫁さんにしたな~」

 

と口々に言ったそうだ。

 

私の知っている母は、

律儀で働き者で美人だった。

でも、いつも何かに耐えているようで、

私には決して明るくは見えなかった。

 

 

✿一枚の写真✿

 

私が自分の生い立ちを書くようになって、

自分の幼い頃のアルバムを見ていた。

一枚の写真を見つけてはっとした。

 

母が幼い私を抱いて、

母が大好きな母親(私の祖母)、

仲良しの妹(私の叔母)、弟(叔父)と

一緒に撮った写真だ。

 

 

こんなに明るく伸びやかな表情の母は、

私の記憶にはなかった。

 

母は耐えていたんだなとつくづく思った。

 

 

✿母の激動の人生を文章に✿

 

母が亡くなって、

12年の歳月が経とうとしている。

 

父は母より8才年長だが健在だ。

しかし、記憶の衰えが激しく、

昔のことをあまり覚えていない。

 

母の兄弟の多くが既に亡くなり、

現在、健在なのは叔母、叔父の

2人になった。

 

長女の私は58才になった。

私にも弟にも子どもがいないので、

母には孫がいない。

 

母の記憶は私たち姉弟が死去すれば、

消えて行ってしまう。

 

貧しい少女時代を懸命に生きた母。

疎開先で虐められながら、

必死で生き延びた母。

15才の若さで親元を離れて、

仕送りをしながら働き続けた母。

気難しく頑固な姑に仕えた母。

祖父母を介護し尽した母。

自ら難病を患った母。

 

私にできることは昭和の激動の時代に

懸命に生きた一人の女性の姿を

文章に書き残すことだ。

 

 

 

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