1
「私、おはぎって食べ物が中途半端で許せないの!」と美沙子さんが突然に言った。
英会話教室の休憩時間に、私が友だちのみどりとおはぎの話をしていた時だった。私たちは「田舎のお祖母ちゃんが、餡から作ってくれるおはぎが本当に美味しいの」とか「太るけれど、いくつも食べてしまうね」とか言って盛り上がっていたのだ。
私もみどりも美沙子さんのことばで気まずくなって黙ってしまった。
「だいたい、あの粒餡が許せないわ! 中途半端に皮が残っていて。それに餅の部分もそうよ。お餅なの? ご飯なの? あの中途半端な餅も許せないわ!」
美沙子さんは言うだけ言うと、気まずそうな私たちにかまわず、テキストを開いた。軽蔑したように私たちをちらりと見て、自習を始めた。
美沙子さんはいつもこんな調子で、英会話教室のみんなをバカにして冷たく無視している。
美沙子さんはアラサーで目鼻立ちの整った美人だ。均整の取れたスッキリしたスタイルで、いつもお気に入りのブランドの洋服をオシャレに着こなしている。
英会話教室の友だちの話しでは、有名な女子大を卒業し、一流企業に勤めているらしい。才色兼備を絵に描いたような女性なのだ。
でも、美沙子さんの綺麗な顔はいつも無表情で、私たちはみんな、美沙子さんの笑顔を見たことがなかった。
2
そうこうするうちに休憩時間が終わり、レッスンが再開された。リンダ先生がモデル会話の説明をされると、美沙子さんは辞書を引きながら、熱心にノートを取っていた。
ところが、リンダ先生が説明を終えられ、会話練習の時間になると、美沙子さんは絶対に一言も英語を話さなかった。
「私は間違った中途半端な英語を話したくないので、英語を完全にマスターしてから会話に参加します」
美沙子さんは、毎回、同じことを言った。「通じればいい」と言うレベルの私たちとは話したくないようだった。そんな時、美沙子さんの目は、いつもこう言っているのだ。
––私は中途半端で間違った英語を話す自分を想像するだけでも耐えられない!
美沙子さんが会話練習に加わらないので、ペアワークで余ってしまう生徒が出たり、美沙子さんが話さないので、レッスンの進行が止まったりすることもあった。
私たちがたどたどしい英語で楽しそうにペアワークをしていると、美沙子さんは冷たい白けた目で私たちを眺めていた。美沙子さんのこんな心の声が聞こえてくるようだった。
–そんな中途半端で間違いだらけの英語をよく話せるわね!
私が英語っぽい自然な表現を知りたくて、リンダ先生に質問して時間を取ると、
「響(ひびき)さん、質問はもういいですか? だいぶ時間もとっているし……」
美沙子さんに制されることがよくあった。美沙子さんは一言も英語を話さず会話練習に参加しないのに……。
美沙子さんは美人で頭もよく、能力を発揮できる仕事に就いているのに、いつも不満そうで、楽しそうには見えなかった。
私たちは、会話練習に加わらない美沙子さんに、間違い探しをされているようで、落ち着かなかった。だから、会話練習の時は、教室の雰囲気がギクシャクしてしまうのだ。
そころが、しばらくすると、無遅刻無欠席で熱心に勉強していた美沙子さんが、急に教室に姿を見せなくなった。美沙子さんには申し訳ないけれど、私はほっとしたような気分になったのだった。
3
そんなある日、噂好きな生徒が見てきたかのように言った。
「ねえねえ、美沙子さんが心を病んで入院しているらしいわよ」
「え! 本当?」
「美沙子さんの会社の本社がアメリカになって、外国人社員も増えたので、社内公用語を英語に統一したらしいのよ。社員同士の電話やメール、ミーティング、議事録などの文書も全て英語で行うようになったらしいのよ」
どこで聞いてきたのか、その生徒は話を続けた。
「美沙子さんは英語で書く仕事はまったく問題なかったらしいけれど、一言も英語を話さなかったらしいのよ」
「もしかして『英語を完全にマスターするまでは話しません。間違った英語を話したくないので』って言い張ったとか?」
「そう! その通り! それで業務に支障をきたすようになったんだって」
噂好きな生徒の話では、何事にも「完璧でなければ価値がない」と考えている美沙子さんと同僚は、ギスギスしていて、上手くいっていなかったらしい。そこへ社内の公用語が英語になったことで、ますます人間関係のストレスが酷くなったと言うのだ。
その時、私は突然におはぎのことを思い出した。皮がのこって中途半端な粒あんが許せない美沙子さん。お餅かご飯かはっきりさせないと我慢できない美沙子さん。完璧な英語を話すまでは、中途半端な英語を絶対に話したくない美沙子さん。
心を病んでしまうまで美沙子さんを苦しめたのは、人間関係のストレスではないような気がした。美沙子さんは、中途半端なおはぎを許せないように、きっと英語を完璧にマスターできない中途半端な自分を、誰よりも許せなかったのだと思う。
私は美沙子さんが教室に来なくなって、ホッとしていた自分を後ろめたく感じた。
4
私は噂好きの生徒から美沙子さんが入院している病院を聞き出し、迷った末にお見舞いに行った。美沙子さんの部屋は綺麗な個室だった。意外にも、美沙子さんは笑顔で私を迎えてくれたのだ。初めて見る美沙子さんの笑顔だった。
「響さん、来てくれたのね」
「お加減はいかがですか?」
「私ね、会社に適応できなくて……」
「大変だったんですね」
美沙子さんは、私をチラッと見て、少しつらそうな顔をして言った。
「倒れて入院した時は、英語でのコミュニケーションひとつできない自分を用無しのダメ人間だと思って絶望したわ……」
「無理を重ねていたんじゃないです 、本当に入院して良かったのよ」
「そうなんですか……」
美沙子さんは入院当初、精神科の先生の診察やカウンセリングが、苦痛だったという。自分の本心を知られるのは、絶対に嫌だと感じていたと。私が率直な美沙子さんに戸惑っていると、美沙子さんは少し笑った。そして、ちょっとためらってから、私にこう言った。
「響さん、あなた本人に言うのはどうかと思うけど、英会話教室では響さんが憎らしくてね」
「え? 私が?」
「そう。ちょっとくらい間違っても、楽しそうにどんどん英語で会話して上達するあなたが、憎らしくて」
「そうだったんですか?」
「今、思うと羨ましかったのね」
そう言って美沙子さんは苦笑いをした。
5
美沙子さんは穏やかな表情に戻ってことばを続けた。
「私、倒れて良かったと思うわ。入院すると不眠で悩んでいた私が、自分でも驚くほどよく眠ってるの。静かな環境でしばらく休んだからか、精神科の先生やカウンセラーさんにやっと本音で話せたの」
「そうだったんですね」
「本音で話して、初めて自分を振り返れた。自分がいつも『間違ってはいけない! 中途半端はいけない!』って、自分を追い詰めていることに気づいたの」
美沙子さんはしみじみと言った。そして、ベッドから出て、テーブルの上の紙包みを開いた。
「響さん、お茶を入れるから、一緒に食べましょ」
「あ! おはぎ!」
「嫌いだと思っていたけれど、食べてみると美味しいね。程よく残っている小豆の皮の食感や、柔らかいお餅に残っているお米のつぶつぶ感も」
美沙子さんはそう言って笑った。以前は、中途半端で許せないと言っていたおはぎを、美味しそうに食べている美沙子さんを見て、私はホッとした。
「小豆もお込めも完全に潰されていなくて中途半端だからこそ、おはぎは美味しいのね。」
「そうですね」
「人もそうかもしれないわ。どんなに優秀な人でも完璧じゃないし、みんな成長途上にいるのね。成長途上で失敗して、失敗から学ぶのね」
「ええ、本当に」
「中途半端な部分や間違いを超えて、人は成長するんだってわかったら、『間違ってもいい』ってやっとわかった。本当に楽になったわ」
部屋にきな粉の香りが漂い、おはぎを食べている美沙子さんは別人のように穏やかな顔をしていたのだった
私は英会話教室に入ったばかりの頃、間違うことが怖かったのを思い出した。でも、レッスンを重ねるうちに、「間違わない人なんていない」と気づいたのだ。間違いから学んで上達することがうれしくて、英会話が楽しくなったことも思い出したのだ。
私は、美沙子さんと美味しくおはぎを食べながら、「英会話だけじゃなく、他のことでも、完璧を目指すんじゃなく、成長途上の今を楽しもう!」と心に誓ったのだった。
<終わり>
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