晴子は前面いっぱいに花の刺繍をした女児用のブラウスを手に取った。箪笥の底から出て来たもので、母の秋江が、幼い晴子のために作ってくれたものだ。少し食べこぼしのシミが残っている。
「お母さん、刺繍が得意だったよね」
亡き母がそこにいるかのように声が出た。晴子の母秋江は大変家庭的な人で、家事全般をキチンとこなした。その上、手作りが好きだった。専門の学校に行ったわけでもないのに、婦人雑誌等を見て、上手に晴子の服を縫ったり、編んだりすることを楽しみにしていた。
刺繍のブラウスを眺めながら、このブラウスが完成して初めて着た日のことを、晴子は苦々しく思い出した。
秋江は晴子がこのブラウスを着ると、吐き捨てるように言った。
「この子は何を着せても似合わないわね! 誰に似たんだろう!―」
秋江はだれもが認める美人だったが、晴子は秋江に似ていなかった。晴子は自分がなにか大きな失敗をしでかしたような戸惑いと悲しさを感じた。
美人で手作りが得意な母秋江は、晴子の自慢だった。しかし、晴子には、秋江はいつも遠い人だった。同じ家で母と子として暮らしていても、晴子は秋江といると、他のどんな人といる時よりも緊張した。
それでも秋江に気に入られようと晴子は必死だった。秋江の言いつけは何でも黙って大人しく聞いた。お手伝いでも、お使いでも自ら進んでやり、自分の身の回りのことも何でも自分でした。
まわりの大人がそんな晴子を褒めると、「器量は良くないんですが、大人しくて聞き分けが良いことだけが取り柄なんですよ」秋江は決まってそう言った。
晴子が一生懸命にお手伝いをし、真面目に勉強して良い成績を取った時、秋江は優しく微笑んで言った。
「晴ちゃん、頑張ったね」
晴子は秋江のその笑顔見たさに、懸命に頑張って、「大人しくて聞き分けの良い子」を演じるようになった。晴子は学校の勉強にも真面目に取組んだ。努力の甲斐あって晴子の成績は、いつも良かった。
利口な晴子はすぐに「器量は良くないが聞き分けの良い真面目ないい子」を演じることに慣れた。晴子と秋江は絵に描いたような良い母と娘に見えた。
ところがまわりの大人は誰も気づかなかったが、晴子は得体の知れない欠乏感に悩まされていた。いつも何か満たされない息苦しい生きづらい人生を送って来たのだった。
晴子が秋江の作った刺繍のブラウスを眺めていると、いつの間にか父の剛が側に立っていた。「お母さんが作ったブラウスかい?お母さんは晴子のために一生懸命に刺繍していたな。晴子はお母さんの自慢だったからね」
「そうなの?!―」
「お母さんはああいう人だったから、口には出さなかったけれど、頑張り屋の晴子を誇りに思っていたよ」
晴子は気持ちがグラグラするのを感じた。
「お母さんは実家が貧しくて、」学歴がないことを卑下していたから、晴子が大学に行った時は、本当に嬉しそうだったよ。でも、お母さんは『晴子は他の子が母親に甘えるように私には甘えてくれない』とよく寂しがっていたな……」
自分の気持ちを抑えつけて素直に感情を出さない晴子だったが、剛の言葉に心の奥に抑えつけていた感情が大きく揺れるのを感じた。
「どうして教えてくれなかったのお父さん!―」
剛は違う晴子の様子に驚いたのか黙って部屋を出ていった。泣かない晴子の目から涙が溢れ出た。
「お母さん、私お母さんが恋しかったのよ! どうして、言ってくれなかったの?! 私、ずっと苦しんでいたのよ! いい子でいるのは辛かったよ! 寂しかったよ!お母さん!―」
晴子は秋江の作ったブラウスが、秋江であるかのように訴えた。
「でもね、お母さんが私を自慢に思ってくれていたと知って、とても嬉しいよ。お母さん!私たちもっともっと本音でいられたらよかったね。そうしたら普通の親子のように、もっと気楽に、伸び伸びできただろうね。お互い楽しく生きられたのにね」
晴子に着せるために一心にブラウスを刺繍する美しい秋江の姿が晴子の心に浮かんだ。秋江は優しく晴子に微笑んでいたのだった。
<完>
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