
<お国のために死ぬのだと教えられた>
私が教師だった頃、生徒会の生徒と「平和の集い」の企画を進めていた時のことです、父が私にこう言いました。
「久夢、戦争はある日突然に飛行機が飛んで来て爆弾を落とすんと違うで。ワシらは若い頃、『日本の若者は20歳まで生きられへん、みんなお国のために死ぬんや』と教えられてきた。だんだん考え方がおかしくなるんやで。教育は怖いんやで」
<戦中戦後の苦難>
振り返ると幼い頃、私は両親から戦中戦後の苦労話をよく聞かされました。一番よく聞いたのは食糧難による苦労でした。
お米がなく、お芋やふすまの混じった小麦粉の団子汁を食べて飢えを凌いだこと、それでもまだ芋や小麦粉があるのは良い方で、芋のツルや食べられる雑草も食べたと聞きました。
お風呂を沸かす燃料がなく、なかなかお風呂に入れず、頭にシラミがわいている人が多かったことやいつ空襲があるかもわからないので、寝間着を着てぐっすり寝られなかったこと。警報の度に防空壕へ行ったこと等、両親から聞いた戦時中の苦労が、切れ切れに思い出されます。
<薄れゆく戦争の記憶>
でも、戦中戦後の話を聞く機会も少なくなりました。母は亡くなり、父も96歳になり認知症が進み、戦時中のことをほとんど覚えていません。
それでも大阪大空襲の後、当時17歳だった父は、大阪の親戚の安否を確認するために、大阪に行ったそうです。大阪は一面焼け野原で何も残っておらず、トイレが一つポツンと焼け残っていたのが、妙に記憶に残っていると父は言っていました。
みんな泣きながら親族を探して歩いていたそうです。
<教科書を墨で塗りつぶした>
敗戦当時、17歳で多感な年頃だった父は、敗戦までは「天皇陛下万歳!日本は神の国だ!」と言っていた大人が、敗戦後は突然に「これからは民主主義の時代だ!ハロー!ハロー!」と言っていたのを不信の目で眺めていたと私に教えてくれたことがありました。
敗戦当時9歳だった母は、学校の先生の指導により、教科書を墨で塗りつぶしたと言っていました。
<父が一番語りたがらない戦争の記憶>
父が一番語りたがらない戦時中の出来事があります。父の末の妹(私の叔母)の死です。
叔母は戦時中に病に倒れ入院しましたが、よい薬も十分な食料もなく、父は妹が冷たくなって行くのを、為す術もなく見守っていたそうです。叔母は、残された家族が、自分の入院費を支払えるかを心配しながら、亡くなったと父から聞いています。
「十分な薬と食料があれば死ぬような病気ではなかった。自分は妹に何もしてやれなかった。戦争がなかったら、薬や食料が十分にあったら、妹は死なずにすんだ…」父は今も叔母の死を語りたがりません。
「戦争がなかったら死なずにすんだ」そんな苦しい思いをしたのは、私の父だけではなかったはずです。
<戦争の記憶を語りつぐこと>
戦争を体験した世代のリアルな記憶は、少しずつ薄れて来ています。でも、私は「日本の青年は全て20歳までは生きられない。みんなお国のために死ぬのだと言う教育を受けた。教育は怖いのだ」という父の言葉を忘れることが出来ません。
ごく普通の人々が戦争によって、どれほど辛く苦しい経験をせざるを得なかったかを、戦争の悲惨さをリアルに経験した人々の記憶を、書き残すことが私の役割です。そのように感じ「終戦記念日」にこの文章を書きました。

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