1
「何歳までサンタクロースを信じていたか?」という話題になると律は、その話題について行くことが出来ない自分を悲しく感じる。街に流れるジングルベルのメロディーに、幼い日の心の痛みが蘇るのだ。
外国風の行事を心底嫌っていた祖母波留の顔が、クリスマスディスプレイに重なって見えるような気がした。
律の祖母は、華道の伝統を守る流派の第一人者だった。祖母は律を厳しく躾け、自分の価値観を律にも押しつけた。
街にジングルベルが流れ、ツリーが飾られ、子どもたちが、クリスマスの話で盛り上がっている時も、律の周りには、それらしい雰囲気はまったくなかった。
せめてクリスマスケーキだけでもと祖母にねだると、「私は流行にとびつくのは嫌いですよ」と、はねつけられた。
律が残念そうにしていても、父は無言だった。父は華道を嫌い、サラリーマンになったこともあり、家を仕切っている祖母に逆らえないのだ。母はそんな父をじれったく思っても何も言えず、律がしつこく祖母にねだると、苛立って律を叱った。
ある時、見かねた母の友人がクリスマスケーキを買ってくれたことがあった。律は飛び上がらんばかりに喜んだが、祖母は「うちにはうちの考えがあるのに……」と嫌悪感を表し。両親も「クリスマスケーキが買えないわけではないのに……」と複雑な表情だった。
律はその時のことを今でも忘れることができないでいる。
当然、クリスマスには母の友人が買ってきてくれたケーキを食べられると律は楽しみにしていたが、祖母は、「頂いたものをすぐに食べたがるなんて口卑しい」と言って、律にクリスマスケーキを食べることを禁じたのだ。
クリスマスが過ぎても、祖母は絶対にケーキを食べることを許さなかった。ケーキが異臭を放つようになって、やっと祖母は包装を解いたが、当然、ゴミ箱行きになった。
律は悲しかった。自分の価値観を律に押しつける祖母が悲しかった。母の友人の厚意を無にしたようで、たまらなく悲しかった。
その事件以来、律はクリスマスにまったく何も期待しなくなった。ケーキが食べたいとは絶対に言わなくなったのだ。
皮肉にもその頃になって、両親がクリスマスケーキを買ってくれるようになった。律の気持ちを考えてと言うより、外聞を憚ってと言う方が正しい。近所の人にも「お宅は厳しすぎるのよ」と言われたのだ。
律は白けた気持ちでクリスマスケーキを食べた。両親には、「しつこくねだったのに喜ばない」と言われたが、喜ぶ気持ちにはなれない。一事が万事、そんな調子だった。
––しきたりが最優先で、私の願いなんて叶えられない……。
幼かった律に他の選択肢はなかったのだ。そんな育ち方をした律は、いつの間にか、自発性のない大人しいだけが長所の人間になってしまった。
祖母が亡くなって、律の家は普通のサラリーマン家庭になった。しかし、律はまだ祖母の支配から逃れられない。特に、ジングルベルが流れる頃になると、幼い日のことが強烈に蘇ってくるのだ。
大学の英文科を卒業して、成人した今も自分が何をしたいのかよくわからない。
2
––今年もクリスマスがやって来るな……。
律は浮かない気分で思った。
「朝倉さん、浮かない顔してどうしたの?」と水樹大河が言った。
律は大学卒業後、公務員試験を受けたが不合格だった。今は知人の紹介で、ある財団法人の事務局で働いている。
財団法人の創立者水樹朔太郎は、高名な民芸運動の指導者だった。彼が提唱した「生活に根ざした健全な美」や「新しい美の見方」が、財団で今も継がれている。
朔太郎が民芸運動を後世に残すため設立した財団では、朔太郎の著書や資料の整理、民芸運動史の編纂、講演会の企画、会報の編集・発行などを行っている。朔太郎の孫大河は、30代半ばだったが、財団法人の運営をまかされている。
初出勤の日、「私、不器用で、取り柄がないんです…」と律が不安げに言うと、
「大丈夫。中途半端に器用な人より、真面目で不器用な人の方が仕込み甲斐があるからね」と言って大河は穏やかに笑った。
祖母に「バカだ! 愚図だ! 不器用だ!」と言われて育った律は、仕事を始めてから、段々と自尊心が回復していくのを感じた。
そんなある日、大河が言った。
「律さん急ぎの校正の仕事があるんだよ。クリスマス返上になるけれど、勤務時間延長してやってくれる?」
「もちろん大丈夫ですよ。クリスマスなんて、予定はありませんから」
「そうなの? あ、それから、水樹朔太郎、つまり僕のじいさんの思い出を書いた英文記事があるんだ。律さんは英文科卒だろ、これの翻訳も頼めるかな? 新年号に載せたいんだよ」
「えっ。そんな大事なもの、私がやっていいんですか!」
「もちろん! よろしく頼むよ」
その日から律の忙しい日々が始まった。会社では新年号の校正の仕事に追われた。
律は帰宅後、パソコンに向かって英文記事の翻訳に取り掛かった。民芸運動の指導者水樹朔太郎を回想する記事だった。
水樹朔太郎は、「美は生活の中にある」「各地の風土から生まれ、生活に根ざした民芸には、用に則した『健全な美』が宿っている」と、「新しい美の見方」や「美の価値観」を提示したことが回想されていた。
また、朔太郎が「物質的な豊かさだけでなく、より良い生活とは何か」を民藝運動を通して追求したことも書かれていた。
律は、日頃、民芸運動に関する仕事をしている関係で、回想録の背景などがある程度理解できた。それが助けになった。水樹朔太郎の人となりや、民芸運動にかける情熱が、その記事から読み取れて、律自身の勉強になり、作業は大変だったがやり甲斐があった。
3
回想録の翻訳が終わり、翻訳を大河に見せると、彼は労をねぎらってくれたが、律の翻訳を読んで難しい顔になった。
「今日、会社の仕事が終わったら、翻訳の検討会をしよう。時間は大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
律は答えたが、不安な気持ちでいっぱいになった。すぐに大河と翻訳の検討会をする時間になったのだった。
「律さんの翻訳は、英語が日本語になっていて読めるけれど、筆者の朔太郎に対する思いが伝わってこないよ」
「すいません、どうしても英文に囚われてしまって」
「筆者が伝えたいことを理解して、それを最初から日本語で表現し直すくらいの気持ちでないと、筆者の気持ちが読者に伝わらないよ」
律はその言葉を聞いて、何かが閃いたような気がした!
「あっ!」
「律さん、どうしたの?」
「わかりました! 訳し直してみます」
律が嬉しそうにいうと、大河は驚いたように目を丸くしていた
帰宅した律は、著者から直接話を聞いているように翻訳に取り組んだ。水樹朔太郎の民芸への情熱、感銘を受けた筆者の興奮が律に伝わってきた。
記事を理解すると、理解した内容を自分のことばで表現した。自分のことばで表しながら、律の頭に祖母の姿が浮かんだ。祖母の流派に対する思いが、今は理解できるような気がした。
誤訳を恐れる気持ちもあったが、自分が英文から感じたことを日本語で表す作業を進めたのだ。クリスマスなど全然気にならなかった。
翌日の夕方、律は翻訳し直した文章を再度大河に見せた。
「良くなったね!」
「本当ですか?」
「もちろん、律さんが、『美は生活の中にある』『新しい美の見方』をよく理解して、筆者の感情や伝えたい熱意をよく汲んで翻訳しているのを感じたよ」
律は大河のことばに胸が熱くなった。
「私の祖母はある華道流派の家元補佐だったんです。祖母は華道文化継承のために懸命だったのですが、私は祖母の価値観に逆らえず、ずっと苦しんできたんです。記事を翻訳して、少しは祖母を理解できたように思いました」
「そうだったんだね! 偉大な水樹朔太郎を祖父にもつ僕には、律さんの苦しみがわかるよ」
「大河さんのように立派な継承者でも?」
「立派な継承者? とんでもないよ。水樹朔太郎の名前に押しつぶされまいと必死さ」
律は大河の率直なことばに驚きながらも、大河を身近に感じた。
「律さんが、水樹朔太郎の情熱や民芸運動を導く苦労を理解してくれたおかげで、深くて意義深い翻訳になった。財団のメンバーにこの貴重な内容がシェアできるよ」
「少しでも役立ててうれしいです!」
「これから律さんの英語力を活かす場がまだまだあるはずだよ」
律は大河の会社に務めてから、真面目に粘り強く仕事を進めてきたこと、そして自分の英語力が、人の役に立てた感動で胸がいっぱいになった。
「校正作業の方もメドが付きそうだし。律さんは甘いものは好き?」
「はい、校正作業の時、会社の方に何度もチョコレートやキャンディを差し入れて頂きました」
「そっか~、よかった」
「どうしたんですか?」
「クリスマスはもう過ぎてしまったけれど、ケーキを買ってきたんだ」
大河が少し照れたように言った。
「クリスマスケーキですか?」
「うん、クリスマスは過ぎてしまったけどね。コーヒーを入れて一緒に食べよう。実は……、僕も翻訳してみたんだ。いつか律さんにも見せるから読んでみて」
律は給湯室に行ってコーヒーを立てた。幸せな気分が心に流れ込んできた。
今まで何となく勉強して来た英語が、こんな形で役に立ったのだ。翻訳には何が大事なのかを直感してからは、水樹朔太郎や孫の大河が情熱を傾ける民芸運動を感じとれた。
その支配をあんなにおそれていた祖母が、自分の信念に忠実であるあまりに厳しかったこと、そして「美を伝え残すのだ」という強い使命感を持っていたのだということを、律は翻訳を通じて理解できたのだ。
コーヒーを入れて部屋に戻ると、ちょうど大河が箱を開けたところだった。律は、包装紙を見て大河がわざわざ遠回りして評判のケーキ店に寄ったことがわかり、大河の優しい気づかいに、胸が温かくなった。
クリスマスケーキは、色とりどりのフルーツや生クリームで色鮮やかにデコレーションされ、フルーツやクリームの甘い香りが漂っている。
大河は上手にケーキを切り分け、「これは一番の功労者にあげよう」と言って、プレゼントを持ったサンタクロースのマジパン部分を律にくれた。
––この幸福感が何ものにも代えがたい私のクリスマスプレゼントなんだ!
律は思った。
一口食べると、甘酸っぱいフルーツと生クリームの柔らかさが口いっぱいに広がった。それは、幼い律が夢見た幸福の味だった。
律は、遠い昔、祖母に食べることを禁じられたクリスマスケーキのつらい思い出が、ゆっくり消え去るのを感じた。
<完>
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