【短編小説】共鳴~響き合う心と心~

拓也がそれを告げたのは、早春の黄昏時だった。美穂が住む京都を訪れ、拓也はぶっきらぼうに、でも表情には寂しさをにじませて言った。

「オレがこっちで聞いてた音楽みんな、美穂に引き継いでほしいんだ」

「どういうこと?」と聞きたかったが、声には出なかった。口を開いたら、涙があふれ出してしまう……。

拓也は百枚近いCDが入った箱を美穂に差し出した。まるで不用品でも渡すように。だが眼差しは真剣だった。

「ありがとう」と声に出しかけて黙った。

わかっていた。「ありがとう」と言えば「礼はいらない。したくてやってるだけだから」と拓也は言うに決まっている。

「今夜の夜行バスで東京に帰るよ」

「引っ越しの準備、終わったん?」

「ああ、全部業者が運び出してくれたよ」

――この会話を終えたら、二人の縁が切れてしまう……

美穂は何か言おうとしたが、何も言えなかった。大切そうに箱を抱く美穂を見つめ、拓也も何も言えず、そのまま背を向けた。

拓也は一度も振り返らなかった。

西本願寺の総門に向かって歩く拓也の姿が、だんだん遠くなり、見えなくなった……。

夕日に映える西本願寺の美しい甍屋根が悲しいほど綺麗で、どこからか沈丁花が香っていた。

そうして拓也と別れたのは、三か月前、美穂は拓也の後姿を今でもはっきり覚えている。

美穂が目を閉じると、拓也と一緒に聞いた音楽が耳の奥で響いた。拓也が美穂をいざなった音の世界。

 

美穂の夫は、朝早く家を出る。朝がつらい美穂は、必死に朝食を準備した。夫が朝食を食べ終えると、雑然としたダイニングテーブルをそのままにして、寝室に戻ってベッドに倒れ込んだ。

――だるい! 頭も痛い。一体いつになったら治るんやろう……。

美穂は保育園で保育士としてフルタイムで働いていた。子どもが可愛くて、一生懸命になればなるほど、仕事が増えた。それでも子ども可愛さに無理をしたからだろうか、過労とストレスが美穂の精神を蝕んでいた。うつ病だった。

休職して人が働いている時間にベッドで横になっていると、「みんな働いているのに、私はゴロゴロしている」と自分を責めてしまうのだ。

正午近くなってやっと体調がましになり、スマホを手に取った。音楽を聞こうとすると、アプリの通知が目に留まった。

どうやら、誰でも気軽にリアルタイムで音楽を流しながら配信できる機能があるらしい。しばらく画面を眺めていると、「初心者さん歓迎。心落ち着くクラシック部屋」というYouTubeのライブ配信の通知が目に入った。

それが、拓也が開いたクラシックルームだったのだ。

美穂は最初、参加するのをためらった。うつ病が酷い時は、音楽も騒音に聞こえたし、クラシックは好きだけれど、よく知らないからだ。

しかし画面には「初心者さん歓迎。心落ち着くクラシック部屋」と表示されている。知らない人の方が返って気が楽かも知れないと思って、美穂はそっと配信に入り、チャット欄に挨拶のコメントを書き込んだ。

クラシック部屋の配信で、美穂は拓也の洗練された感覚や興味深い曲紹介が気に入り、彼が配信を開くたびに参加するようになった。

コメントを通じておしゃべりするその時間が楽しく、今ではクラシック音楽が心を癒やしてくれるのを感じる。

拓也は中学高校時代、全国大会で何度も優勝している吹奏楽部に所属していた。今も大のクラシックファンだ。

しかし、それを鼻にかけず、クラシック初心者の美穂がチャット欄でおかしな質問をしても、むしろ自分もそれを楽しむように、いろんな話をしてくれた。

参加者が美穂一人の時間には、拓也がエンジニアとして勤務した外国での生活やそこでの失敗談、時には上司の愚痴話が出ることもあったのだ。

拓也が自分を信頼してくれているようで、美穂は嬉しかった。

だんだん親しくなると、拓也から美穂に個人メッセージが来るようになった。

最初は驚いたが、しかし、おかしなメッセージではなく、連絡事項や「この音楽を聞いてみて」と言う曲のオススメを紹介したものだ。

「今、いいか? 美穂に聞かせたい曲があってね。しかしな、ちょっとマニアックなんだ……」

「私にわかるかな? なんて曲?」

「ショスタコーヴィチの交響曲第五番で『革命』と呼ばれていたこともあるんだ。関西ローカルドラマのテーマ曲として使われたこともあるよ」

「知らない。でも、聞いてみたい」

「第四楽章を違う指揮者とオーケストラで聴き比べてみて。美穂の感想を聞きたいな」

拓也はショスタコーヴィチ交響曲第五番第四楽章を送ってきた。一つはムラヴィンスキー指揮でレニングラードフィル。もう一つは、バーンスタイン指揮でニューヨークフィルだった。

「うわ! おんなじ曲やのに、ムラヴィンスキーのは地の底から響くような凄みを感じるし、バーンスタインのはパーンとはじけるようで、開放的に聞こえるわ」

「『地底から響く』と『開放的』、確かにそうだ。美穂は感性が豊かだね。それをことばにするセンスもいいよね」

拓也のことばを聞くと、美穂の心臓が鼓動して、温かいものがこみ上げた。

――私って感性が豊かなんや……。そういえば、最近、褒められたことなかったもんな。

うつ病を患って、保育園ではお荷物扱いされ、結局退職せざるをえなかった。仕事を辞めて、専業主婦になったと言ってもろくに家事ができない。

夫は仕事に忙殺され、美穂の話を聞く余裕がないのか、二人の間には会話もなくなっている。

拓也とメッセージを交わすうちに、拓也が美穂より五歳年上の三十三歳であること。一流企業に勤めていて、東京に自宅マンションがあることや、今は大阪に赴任中であること。そして、バツイチで今は独身であることも知った。

拓也とすっかり仲良くなり、夕食後も美穂は彼と個人メッセージで交流している。

イヤホンをして、リビングに置いたパソコンのキーボードを叩いて、ことばを交わした。拓也も文字での会話を好み、イヤホンから流れてくるのは音楽だけだ。

夫もリビングにいたが、カウチでいびきをかいて眠っていた。仕事で疲れているのか、そんな美穂に関心を払う余裕もないのだろう。

それに、拓也が流すクラシックを一緒に聞くことを勧めたこともあったが……。

「眠たくなるし、俺に聞こえないようにしてくれや。今、ゲームがいいとこなんや、静かにしててくれよ」と言った。プロ野球中継に集中したいようだ。

うつ病の美穂を持て余している夫は、美穂が音楽を聞いて楽しそうに聞いている方がいいのだろう。

 

拓也のクラシックライブ配信を聞くようになり、感じたことを拓也やメンバーと話すのが美穂の生活にハリを与えた。拓也との個人メッセージも、美穂の心の支えになっていたのだ。

拓也のクラシックルームに出入りするようになってから、うつ病の症状が軽くなった。薬も少し減り、医師も驚いていた。

――居場所ができたからやろうか? なんか楽になってきた。

美穂はそう思うと、こそばゆいような、後ろめたいような気持ちになった。

しかし、拓也の東京本社復帰が決まったのはそのころだった。

――クラシックルームはネット環境さえあったら、どこからでも開けるのに……。大阪であろうと東京であろうと。なんで寂しいんやろう……。

美穂は京都から出たことがない。

転居が決まると、拓也は美穂に言った。

「美穂、俺のアンプとスピーカーは高性能なんだ。もらってくれないか?」

「そんな高価なもの、私にはもったいない」

「じゃあ、捨てるか……」

「え! そんな!」

同じような会話を何度か交わした後、美穂は拓也のアンプとスピーカーを譲ってもらうことにしたのだ。

音響マニアでもある拓也は、赴任先の大阪でも高音質な機材を揃えていたが、東京の自宅マンションには、数倍高音質なアンプやスピーカーを持っているのだ。

――なんで捨てるんやろう。東京に高性能の音響機器を持っているいうても。それにそんな高価なものをただでもらってもええんやろうか……。

ネット上だけの交流だった拓也に会うのも、会いたいような、会うのが怖いような複雑な気持ちもある。

音響機器を譲ってもらうことや拓也の来宅についても、夫に了承を得なければならない。気が重い美穂だった。

結局、拓也がスピーカーやアンプを美穂の自宅に運んでくることになった。

約束した日、拓也は美穂宅を訪れた。拓也のスッキリ短く刈り込んだ髪も、手入れのいい口ひげも、垢抜けた服装も、拓也のこだわりを表している。

「拓也さん、こんにちは。はじめまして、美穂です」

「こんにちは。初めて会ったって気がしないな」

拓也のことばに、美穂はホッとした。拓也来宅は夫にも話していたので、夫も拓也を出迎えた。

「拓也さんですね。いつも妻がお世話になっておりまして」

「いえいえ。こんな嵩高いものを押し付けるようで、僕こそ申し訳ありません」

そんなふうに会話する拓也も夫も、仕事の取引相手のようでありながら、どこか緊張している。

夫は美穂を介してしか拓也を知らない。改めて考えてみれば、美穂自身も拓也に会うのは今日が初めてなのだ。

アンプとスピーカーのセッティングや微調整を拓也は一人で行った。美穂はせめてものお礼にと昼食の準備を始める。

最近、凝っている韓国料理のメニューを選んだ。ジャガイモをすり下ろし、キムチとネギを加えるチヂミとお餅入りのスープをせっせと調理した。韓国のお餅はうるち米で作ったトック。

「拓也さん、せめて昼ごはんだけでも食べて行って」

「いや、いいよ。帰る」

「そんなこと言わんと……」

拓也のお腹が鳴った。気がつくと、午後一時を過ぎている。

「それにしてもいい匂いだね。そうだな、いただくとするか」

「そうや、食べて行って。一生懸命に作ったし」

美穂はチヂミにタレを添えて出し、次にトックの入ったスープを運んだ。拓也はスープを一口食べると言った。

「うわ~うまい! 美穂、これなんて料理?」

「トックスープ。韓国のお餅が入ってるねん」

拓也は「いいよ」と口では言ったが、空腹だったらしく、旺盛な食欲で料理を食べた。

「美穂は食わへんの? それに旦那さんは?」

「パチンコに行ったみたい」

「人妻が一人の家に上がり込んでしまったな。間男みたいやな」

拓也は笑ったけれど、美穂は少し戸惑いを感じた。夫には一緒にお昼を食べようと誘ったのだが。

「知らん人とメシ食うのはイヤや。俺はパチンコに行ってくるわ」

パチンコ好きの夫は、そそくさと出かけていった。

――確かに、私は人妻やんな。それやのに、初めて会った拓也さんが、うちの食卓で私の作った料理を食べてる……。

美穂が落ち着かなくなったとき、拓也が言った。

「美穂も食えよ。一人で食べるのは慣れてるけれど」

「そうやね。私も頂こうかな」

それでも音楽の話を始めると、いつも通りの二人に戻れた。話し込んでいると、拓也が思い出したように、

「食った食った! そろそろ音楽を聞こうや」

「そやね。大きなスピーカーで聞きたい」

二人はスピーカーやアンプをセットした書斎に移動すると、拓也は、まず美穂が好きなフジコ・ヘミングのCDをかけた。

「フジコの隣で聞いているみたい!」

「そう感じる?」

「ええ、ピアノの響きが伝わって来る! 比喩と違って、本当に振動を感じる!」

「響きを感じるんだ! それは良かった」

次に拓也が選んでくれたチェロオムニバスのCDを一緒に聞いた。『ピアソラ』『タイスの瞑想曲』、アルバムに聞き入るうちに美穂は響きを実感した。

ドヴォルジャークの『チェロ協奏曲』の演奏が終わった時、拓也からも美穂からも同時に深い感嘆が出た。二人は音の世界に魂を解き放った。

「あ! こんな時間! そろそろ帰らないと……」

拓也は帰り支度をしかけた時、思い切ったようにこう言ったのだ。

「美穂は想像していた通りの人だったよ」

「拓也が想像していた私って、どんなんやったの?」

「人に気を遣って、なかなか自分を出せない繊細で優しい人ってイメージ」

そして、拓也はポケットからメモを出すと言った。

「本社勤務になったら、しばらくクラシックルームも開けないから、何かあったら連絡はここにして」

拓也は電話番号とアドレスを書き込んだメモを美穂に渡す。

――もう会えへんかも……。

美穂は知らない場所に一人取り残されたように寂しかった。

 

「もう会えない」と覚悟を決めたが、意外にも数日後、拓也は東京に帰る日、突然、京都にやって来た。拓也が不要物でも押し付けるように、CDを美穂に託したのは、その時だったのだ。こうして拓也は東京本社に復帰した。

東京本社に復帰後、いつまで経っても拓也から連絡がなかった。

美穂は、ためらった末、拓也の近況を尋ねるメッセージを送った。やはり、メッセージに返信は来なかった。

「エンジニアってメッセージも出来ないほど忙しいの?」

思わず独り言が出た。拓也と自分を隔てる距離が、どうしようもなく寂しい。

感情に身をゆだねて、拓也お気に入りのCDを聞くと、落ち着いた木目調のスピーカーから音楽が流れた。

――今までは音の塊やった。そやけど、今は、金管楽器が力強く、弦楽器は繊細に、耳からだけと違う。スピーカーから肌に響きが伝わってくる!

「このアルバムには影があるよ……」

拓也のことばもよみがえった。音楽の影。拓也がいない寂しさと言う心の影。二つの影が響き合っているのを感じる。

この興奮を拓也に伝えたかった。メッセージでできる限りを伝えようとしたが、思いの半分も書けない。

――バカみたいな私。恋人でも夫婦でもないのに……。

翌朝、リビングの窓を開け放した。拓也が京都に来た時は、セーターを手放せない早春だったのに、いつの間にか季節は初夏だ。

「私は、ただアンプやスピーカー、CDをもらっただけなの、もう忘れよう!」

何度も繰り返したことばが、また口に出た。

朝の家事に区切りがつくと、美穂は手芸箱から布を選び、小さなネコのぬいぐるみの型紙を取り出した。

美穂は手芸が好きだったが、うつ病を患ってから、手芸から遠ざかっていた。何かしようと言う意欲がわかず、集中力も続かないからだ。

しかし、その日は違った。型紙に合わせて布を裁断し、裁断が終わるとピースを縫い始めたのだ。拓也のいない寂しさを紛らすように……。

気がつくと三時間もネコのぬいぐるみを制作していた。そろそろ夕食の時間だと言うのに……。

――夫と暮らす家で、私はずっと別の男のことを考えている……。

美穂は途方もなく不貞なことをしているようで、強い後ろめたさを覚えた。

その夜、入浴を終え、ベッドに横になってくつろいでいると、月の光が美しく見えた。窓辺に移り、久しぶりに夜空を眺めた。

美穂がしみじみと月を眺めていたその時、スマホの着信音がなった。

『美穂、空を見てごらん。月が綺麗だよ』

拓也からだった。

――たったそれだけ……? 拓也にとって私って一体なんなん?

「そんなこともわからないの……」と月の声が聞こえるようだった。

 

「今度いっしょに食事しない? 無理することないけど、たまには外で食事もいいかもよ。翔平も来るから来ない?」

電話は幼馴染の佳織からだった。翔平は拓也の同期で大阪支店時代の同僚でもあった。翔平ともクラシック部屋で交流するうちに親しくなった。

「行ってみようかな?」

「その日に調子悪かったら、言ってくれたらいいからね。じゃあまた連絡するね」

うつを患って以来、美穂は外出していない。部屋着から外出着に着替えるのもメイクするのも億劫だった。それに、何より人が怖い。バスや地下鉄にも乗れない。

――拓也と同僚やった翔平なら、何か彼のことを知ってるかもしれん……。

その思いが、美穂の背中を押した。

佳織は気を利かせて、美穂の家から徒歩圏内にある高瀬川沿いのカフェバーを予約してくれた。

高瀬川は、京都の蹴上から伏見を結ぶ運河で川岸の枝垂れ柳も風情がある。石畳の路地の奥にあるカフェバーは、改装された京町家。落ち着ける店で美穂はほっとした。

佳織や翔平もやってきた。ワインや料理が運ばれてくると、翔平が本社復帰後の拓也について口火を切った。

「拓也は今、本社の大きなプロジェクトもあるし、異動したばかりで、ライブ配信どころじゃないみたいだよ。それに、あいつ、自分の弱いところを絶対に見せないから、なんかあったとしても、一人で抱え込んじゃうんだよ」

「翔平に対してもそうなの? でも何かあったら連絡来るよ」

翔平は少しためらってことばを重ねた。

「女性の影も感じるんだ。拓也は繊細で感受性が強いからか、一度惚れると何も見えなくなるんだ……。前の彼女の時も大変だったよ」

「前の彼女? いっぱいいるのね?」

「拓也は恋多き男だからね……」

翔平と佳織の会話を聞きながら、美穂は複雑だった。料理はどんどん運ばれてきたが、美穂はほとんど食べられない。

――うつ病のせいよ。食べられないのは……。

自分に言い訳しているのがおかしかった。店を出るとワインの酔いがまわり始めた。久しぶりに外に出て人に会ったからか、少し頭が痛い。

――拓也さんは恋多き男だったんや。どんな人やろう……。拓也さんが夢中になった女性って……。

美穂の心で嫉妬心が湧き出し、そんな自分に戸惑った。拓也と連絡がとれなくて、ひどく寂しいことは事実だ。

――私が拓也さんと不倫?

それは想像もできない。気がつくと、いつの間にか佳織が肩を並べていた。

「美穂ちゃん、最近、拓也と仲良くしてるんでしょ?」

「そんなことは……」

「拓也みたいな、繊細で感受性の強い男って、今の美穂ちゃんみたいに、ちょっと弱っている女の人をほうっておけないみたいね」

「そうなん?」

「そいう人って、ちょっと弱いところがあるよね。弱っている女の人に優しくして、頼られることで自分を保っているって言うか……」

美穂の心に拓也と聞いた音楽や拓也と交わした会話がよみがえった。

――拓也さんが優しいのは、私だけやと思ってた。滑稽やわ!

美穂が自分を責めていいると、佳織がことばを続けた。

「拓也が頼られることに疲れて音信不通になっちゃったり、気がついたら、別な女の子と仲良くなっていたり……。そうなったら、どうする? 美穂ちゃんの今の精神状態にはきつくない?」

美穂は何も言い返せなかった。

――拓也さんが、連絡をくれなくなったんは、他の女の子を見つけたん?

「美穂ちゃんに旦那さんがいるから、どうこう言ってるんじゃないよ。大人の女として賢く付き合ってね」

佳織はそう言うと早足で去っていった。

店名を記した軒行灯(のきあんどん)の光が柔らかく、初夏の夜風が快かった。高瀬川ぞいの柳がかすかに揺れている。

美穂は川面に反射する光を見つめながら一人歩いた。

 

家に着くと書斎に行き、オーディオセットでチェロオムニバスを聞いた。拓也がアンプやスピーカーをセッティングしてくれたとき、初めて一緒に聞いたアルバムだ。

まだ少し酔いのまわっている耳にチェロの響きが快く、熱心にセッティングする拓也の姿がよみがえった。

再び聞く、『ピアソラ』『タイスの瞑想曲』。聞き入るうちに美穂は陶酔した。

――あのときもドヴォルジャークの『チェロ協奏曲』が終わって、拓也さんも私も高揚してた。

美穂は学生時代に音叉を使って、共鳴の実験をしたことを思い出した。振動数の等しい二つの音叉の一方を叩いて鳴らせば、他方も激しく鳴りはじめたことを。

――あの時、心が共鳴したのね……。至福の時を分かち合えた。何ものにも変えることができない、至福の時。

だからと言って、拓也との関係が変わるわけではない。拓也の過去の恋愛やその破綻も、美穂と拓也には何の変化も及ぼさない。

――拓也さん、あなたと離れた理由はそれだったのね。心と心が共鳴するのは、生涯にただ一度。

美穂は再び拓也に会えない運命にあるのだと思った。

あの日と同じドヴォルジャークの曲を一人聞きながら、美穂は遠く離れた拓也を感じた。

<完>

 (【短編小説】共鳴~響き合う心と心~:村川久夢)

 

 

 

 

 

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