1
「この子は何を着せても似合わないわね。誰に似たんだろう!」
あの時、母秋江は吐き捨てるように言った。今、箪笥の底から見つけた刺繍のブラウスは、そんな記憶のすべてを閉じ込めているかのようだった。
秋江が前面いっぱいに刺繍をしたブラウスには、かすかに防虫剤のにおいがして、食べこぼしのシミが少し残っているが、今も鮮やかな糸の花が咲いていた。
「お母さん、手芸が得意だったから、私のものをたくさん作ってくれたね。でも、新しい服が完成して、私が着るたびにガッカリしていたよね……」
秋江の嘆く言葉を聞くと、幼い怜は自分がなにか大きな失敗をしでかしたような戸惑いと悲しさを感じたのだった。秋江はだれもが認める美人だったが……。
「怜ちゃんのお母さんは、綺麗な人なのにね……」
「怜ちゃんはお父さん似ね。お母さんに似たら良かったのにね……」
大人の心ないことばが、幼い怜の心を傷つけた。美人で手作りが得意な秋江は怜の自慢だった。しかし、母手作りの洋服を着ても、着映えしない自分に怜はいつも引け目を感じていた。
秋江は怜にはいつも遠い人だった。同じ家で母と子として暮らしていても、怜は秋江といると他のどんな人といる時よりも緊張した。
2
怜は秋江に気に入られようと必死だった。自分から進んで母のお手伝いをした。
「お母さん、私が洗濯物をたたもうか?」
「チキンライスのケチャップが足りないね。私が買ってきてあげるよ」
怜が進んでお手伝いをし、お使いに行くと、秋江は美しい笑顔で言った。
「怜ちゃん、ありがとう」
怜は母の笑顔見たさに懸命に頑張った。母似でなく、母をガッカリさせている穴埋めをするかのように。まわりの大人がそんな怜を褒めると、秋江は決まってこう言った。
「器量は良くないんですが、大人しくて聞き分けが良いことだけが取り柄なんですよ」
怜にとっては、心ない母のことばだった。秋江は聞き分けのよい怜に慣れきって、怜の気持ちを考えることに疎くなっていたのかも知れない。
怜は勉強にも真面目に取り組み、努力の甲斐あって怜の成績はいつも良かったのだ。ところが、いい成績を取っても、怜は秋江の美しい笑顔を見ることはできなかった。母の期待に応えようとしていたのに、それすらも咎められた
怜と秋江の微妙な関係に気づかない人たちには、怜と秋江は絵に描いたような良い母と娘に見えた。まわりの大人は誰も気づかなかったが、怜は得体の知れない欠乏感に悩んでいた。いつも何か満たされない生きづらさを感じていたのだった。
3
怜が秋江の作った刺繍のブラウスを眺めていると、いつの間にか父が側に立っていた。
「お母さんが作ったブラウスかい? お母さんはいつも怜のために一生懸命だったからな。怜はお母さんの自慢だったからね」
「そうなの?!」
「お母さんは口には出さなかったけれど、怜を誇りに思っていたよ」
怜は気持ちがグラグラするのを感じた。怜の心に何を着ても着映えしない怜に落胆した母の顔が浮かんだ。
「お母さんは実家が貧しくて学歴がないことを卑下していたからね」
「そうだったの?」
「ああ、怜が大学に行った時は、嬉しそうだったよ。でも、複雑な気持ちもあったんだろうね」
「お母さんが……」
「『怜は利口な子だから、私に学がないのを見抜いているのよ。だから、怜は他の子が母親に甘えるように私には甘えてくれない』とよく寂しがっていたな……」
自制して素直に感情を出せない怜だったが、父のことばに心の奥に抑えつけていた感情が大きく揺れるのを感じた。
「お母さんは本当に私を誇りに思ってくれていたの?」
「ああ、そうだよ。お母さんは感情を口に出すのが苦手だったからな。でも、お父さんには『怜は本当に粘り強くて頑張り屋なの』とうれしそうに言っていたよ」
いつもお利口で泣かない怜の目から涙が溢れ出た。父は怜を一人にしてやろうと思ったのか、黙って部屋を出ていった。
4
「お母さん! 私、お母さんがずっと恋しかったのよ! 私、ずっと苦しんでいたのよ! いつもいい子でいるのはしんどかったよ! 寂しかったよ!」
怜はブラウスを抱きしめた。まるで、それが母の手のぬくもりを宿しているかのように。その時、怜はふと思った。
母は怜を自慢に思っていた……。でも、本当は母自身が自分を愛せていなかったのかもしれない。貧しさと学歴のなさに苦しんで……。
「でもね、お母さんが私にがっかりしてたんじゃなくて、自慢に思ってくれてとてもうれしいよ。お母さん! 私たちもっとありのままでよかったのね。もっともっと本音で話し合えたら良かったね。そしたら私はあんなに苦しまなくてもよかったのに……」
怜に着せるために一心にブラウスを刺繍する美しい秋江の姿が怜の心に浮かんだ。秋江は優しく怜に微笑んでいた。白く細い母の指が色とりどりの刺繍糸を器用に針に通した。糸の花が咲くたびに、秋江は満足そうに微笑んだ。一針一針にどれほどの想いを込めていたのだろうか……。
怜はずっと母に愛されていないと思っていた。でも、それは違った。母もまた、怜の愛し方に迷っていただけだったのだ。お互いにもっと早くそのことに気づいていれば……。
「お母さんは私を自慢に思っていてくれた。がっかりなんかしていなかった。もう、私自身が私を責めたりなんかしない。あるがままの私を認めてあげるわ」
秋江の作ったブラウスは怜に、「自分を赦して、あるがままの自分を愛してあげなさい」と語っていたのだった。
<完>
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