【連載小説】『薫~書の道・愛の道~』その19「壁を越えて」

自室に戻って、和服から部屋着に着替えると、佐伯は緊張の糸が途切れ、どっと疲れが出たように感じた。

 

手をつないで歩く薫と陽の姿、年始パーティーで耳にした朝倉邸売却の話が、心に重くのしかかった。

 

目立たない薫が、自分の中でこんなに大きな存在になっていたことに驚きを感じた。そして、薫が一途でひたむきな思いを自分に寄せていることに安住している自分のエゴを醜く感じたのだった。

 

佐伯はもう何年も前に六段に合格し、師範免許も取得した。「群青会」内外で何度も受賞し、期待の書道家と評価されている。

 

しかし、経済的には高校の書道教師を辞めて以来、伯母幸子の好意に甘え、いくばくかの生活費を幸子に渡すだけで、伯母夫婦と住み、教室として無償で離れを使っている。

 

佐伯はつくづく自分の経済力のなさを情けなく感じた。

 

佐伯は幼い日、師匠八雲蒼風に出会った日のことを思い出した。

 

佐伯が小学生の頃、近所に生け垣のある瀟洒な和風住宅があった。庭に柿の木があり、柿が真っ赤に熟し、見るからに美味しそうだった。小学生だった佐伯でも手が届く高さにも柿がなっていた。

 

そっと門から庭に入って、柿を1つ取って、門から逃げた。

 

佐伯の姿を見かけた男性が追いかけて来た。佐伯は公園まで必死に走った。佐伯が柿を一口かじった時と、男性が追いついて、こう言ったのはほぼ同時だった。

 

「坊や、その柿は渋柿だよ。食べてはダメだ!」

 

柿の渋さに辟易している佐伯少年に穏和そうな男性が言った。

 

「家に遊びにおいで、甘くて美味しい柿があるよ」

 

瀟洒な家の一室で佐伯少年は高価なあんぽ柿をごちそうになった。市販のチョコレートやキャンディーの甘さに慣れている佐伯少年には、不思議な甘さだった。

  

佐伯少年には、あんぽ柿の甘さも不思議だったが、通された部屋も不思議だった。筆字で難しい漢字が書かれた紙が壁のいたる所にかけられ、机の上には大きな硯と様々な大きさの筆が吊るされた台があった。

 

「また遊びに来なさい」穏和そうな男性が言った。

 

最初は高価なお菓子目当てに、次第に男性の部屋にある書作品に興味を惹かれ、穏和そうな男性の家に足しげく通うようになった。

 

その男性こそが、師匠八雲蒼風だったのだ。

 

ある日、蒼風が佐伯少年に言った。

 

「君も書いてみるかい?」

「はい!でも何を書いたら良いんですか?お手本は?」

「君が書きたいように自由に書くといい」

 

佐伯少年は、蒼風が用意した筆で「一」という字を横にいくつも書き、次は縦に書き、その次は円をいくつも書いた。線が生きているようで不思議な楽しさだった。学校の習字の時間に、習字が楽しいと感じたことは一度もなかったので不思議だった。

 

円をいくつも書くと、最初は歪だった円が、最後は伸びやかな綺麗な円になった。

 

「いいね!のびのびしている!」

「ありがとうございます。僕、習字が楽しいと思ったのは初めてです!」

「君の楽しさが字に表れているんだよ」蒼風は優しい笑顔で言ったのだった。

 

佐伯は幼い日の夢想から現実に戻った。離れに移動し、書道道具を準備すると、大きな硯に水を差し、墨を擦った。硯と墨の触れる感触や墨の香りが、佐伯の苦悩を鎮めた。

 

大筆に墨を含ませると、円をいくつも書いた。幼い日、初めて書道の楽しさに触れた時のように、円をいくつもいくつも書いた。白い紙に墨で描かれた円が生きているようで、佐伯は夢中で円を書き続けた。幼い日の楽しさが蘇ったようだった。

 

薫と陽の姿も、朝倉邸売却の噂も、経済力のない情けない自分の姿も、貴子との結婚を迫る圧力も全て、佐伯の描いた力強い円に包み込まれていた。

 

佐伯は、自分が今、壁を越えようとしているのを感じた。書道家としても、人としても。

 

 

つづく


「墨の香り」『薫~書の道・愛の道~』その1

「衝動」『薫~書の道・愛の道~』その2

「月光」『薫~書の道・愛の道~』その3

「脱皮」『薫~書の道・愛の道~』その4

「気づき」『薫~書の道・愛の道~』その5

「衝撃」『薫~書の道・愛の道~』その6

  「オアシス」『薫~書の道・愛の道~』その7

「疑念」『薫~書の道・愛の道~』その8

「書道講習会」『薫~書の道・愛の道~』その9~

「イルミネーション」『薫~書の道・愛の道~』その10

「カナリーイエローのマフラー」『薫~書の道・愛の道~』その11

「タロット:塔」『薫~書の道・愛の道~』~その12~

「遠い存在」『薫~書の道・愛の道~』その13~

「大掃除」『薫~書の道・愛の道~』その14~

「贈り物」『薫~書の道・愛の道』~その15~

「書き初め」『薫~書の道・愛の道~』その16

「翡翠色の振り袖」『薫~書の道・愛の道~』その17

「若い二人」『薫~書の道・愛の道~』その18

「壁を越えて」『薫~書の道・愛の道~』その19

「プライド」『薫~書の道・愛の道~』その20

 

作家:村川久夢

 

 

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