【連載小説】『薫~書の道・愛の道~』その1「墨の香り」

 

薫が佐伯の書道教室に入って1年が過ぎた。墨を擦りながら1年前のことを思い出した。

 

1年前、大学は卒業したものの、薫の就職活動は思うように行かず、薫は就職浪人状態にあった。実家で両親と同居しているので、生活はできた。両親は何も言わなかったが、薫は無職の自分に無言の圧力がかかっているのを感じていたし、将来への不安もあった。

     

しかし、特に何かしたいという希望や夢を持てない自分が何より虚しかった。

 

やっと決まったアルバイトの帰りに、薫は「書道会-群青-」と毛筆で書かれた看板を見かけた。看板は趣がある和風住宅の門標に書けられていた。力強く勢いのある字だった。薫はその字に強く惹かれ佇んでいた。

 

「お嬢さん、うちに何か御用かしら?それとも書道教室の関係の方?」

住人らしい品の良い女性に声をかけられた。

「いえ、私はただ…」

「どうなさったの?」

「私はただ、この字に見とれていたんです」

「そうなのね。ちょうど今日は書道教室の日だから、見学でもなさらない?」

と言う女性の言葉に、薫は思わずうなずいた。

 

それが薫とこの書道教室との出会いだった。深い理由もなく始めた書道だったが、墨をすり、筆に墨を含ませ、筆の運びに集中する時間は、薫に快い緊張感を与えてくれた。墨の香りの中で、それぞれが書に向かう雰囲気は、薫の心を落ち着かせた。

 

教室を経営する佐伯は、以前は高校の書道教諭をしていたが、書に専念することを決意し、10年間勤めた高校を退職したのだった。書道教室を始めて8年経つと言う。

 

妻子は無く、伯母夫婦の家の居候の身であり、書道教室も伯母夫婦の家の離れを使っているのだ。佐伯は痩身で切れ長の目が涼しく、書に向かう真剣な表情は思慮深く、明治の文豪を思わせた。

 

「背筋を伸ばして!手だけで書くのではなく、腕全体を使って!」

「筆の入る角度をよく見て」

「線に勢いがない、『一』の字を100回書いて、練習して!」

「今習っている基本は、とても大事です。基本を大事にしなさい」

 

入会したばかりの頃、全く初心者の薫に佐伯は次々と指示を出し、ほぼ付きっきりと言っていいほど熱心に指導した。薫は勢いのない、形の悪い自分の字を恥ずかしく思うことはあっても、佐伯の厳しい指導に不満はなかった。快い緊張感の漂う教室に通うことが薫の生活の核になった。

 

薫は休まず熱心に教室に通った。お世辞にも上手とは言えなかった薫の字が、みるみる上達し、まわりの生徒を驚かせた。

 

そんな薫に佐伯は言った。「君は、今は教室の新人で、基礎固めの時期だから、こうして付きっきりで教えるけれど、次に新しい人が来た時には、その人を優先するからね。その時には、一人でも稽古できるように、今しっかり基本を学びなさい」

 

そんな佐伯の言葉は少し寂しかったが、薫はただただ書道が楽しかった。佐伯の教室が好きだった。楽しい日々は怖く感じるほど速く、あっという間に1年が過ぎた。

 

薫が佐伯の書道教室で二度目の秋を迎えたある日、薫は佐伯から稽古の後、教室に残るように言われた。

 

「薫さん、この離れは、伯母の華道や茶道の教室にも使っているんだよ。その伯母夫婦が1ヶ月間、ドイツにいる息子夫婦の所に行くことになってね。その間、私に自由に離れを使うように言ってくれたんだ」

「1ヶ月間、先生が1人で離れを使われるんですか?」

「僕は書道会に出品する作品をここで制作しようと思っているんだ」

「出品なさるのですね」

「そこでなんだけど、もし、あなたに練習する気持ちがあるなら、離れに来て稽古してもいいよ。教えてあげることは出来ないけれど。可能なら毎日来ても構わない」

「え、先生!いいんですか!?私、練習したいです!」と薫は即座に答えた。

「わかった。でも授業ではないので、一切指導はなしだよ。それから、離れの片付けや掃除は全部あなたがやりなさい。いいですね」と佐伯は言った。

 

薫は、それから毎日、離れに通った。離れに着くと、窓を開け放して、掃除をし、敷物を敷いて、机を出した。書道道具を机に並べ、墨を磨った。墨の香りが離れいっぱいに漂った。佐伯からもらった基本編のお手本を出し、臨書した。漢数字、いろは等から始まる基本中の基本だった。

 

例えば「一」と言う字もただ横に線を引くのとは違っている。筆の入る角度、筆を運ぶ速度、留めの力の入れ方などで字が全く違ってくる。闇雲に横線を何十回、何百回、引いても同じことだ。基本となる大事な点を理解していることが大事なのだ。

 

だが、ただ頭で理解しているだけでは全く不十分で、理解したことを、筆と紙で何度も練習して、初めて体得出来るのだ。薫は、毎日、離れに通い、一人で試行錯誤しながら、そのことを学んでいった。佐伯は、ほとんど離れには現れなかった。

 

ある日、めずらしく佐伯が離れに姿を見せた。

 

「薫さん、僕の硯で墨をすってくれる?」と言って佐伯は床に半切用の下敷きを敷いた。

 

薫は佐伯の硯で墨を磨った。墨と硯の擦れる感触が快く、墨の良い香りが漂った。その時、佐伯は薫が練習している基本編の手本の文字を見て、半紙を出すと、薫の筆を取り、机に向かった。

    

「先生、それは私の筆…」と言いかけて薫は黙った。

 

佐伯の姿から気迫が漂った。筆に墨を含ませると、力強く、しかし、軽やかに手本と同じ文字を書いた。ただ整っているだけでなく、線がしなやかで、力強く、字から伸びやかさが感じられた。

 

美しい!

 

筆法用の手本の文字なのにもかかわらず、薫はその字の美しさに非常に感動した。感動が薄れない内に、自分も書きたいと思い、自分用の墨を磨った。佐伯は作品制作に没頭し、薫は佐伯が書いてくれた手本を熱心に臨書した。

 

墨の香りが快く漂う、張り詰めた時間が流れた。 

  

つづく

「墨の香り」~オムニバス「薫」:その1~

「衝動」~オムニバス「薫」:その2~

「月光」~オムニバス「薫」:その3~

「脱皮」~オムニバス「薫」:その4~

「気づき」~オムニバス「薫」:その5~

「衝撃」~オムニバス「薫」:その6~

  「オアシス」~オムニバス「薫」:その7~

「疑念」~オムニバス「薫」:その8~

「書道講習会」~オムニバス「薫」:その9~

「イルミネーション」~オムニバス「薫」:その10~

「カナリーイエローのマフラー」~オムニバス「薫」:その11~

 

作家:村川久夢

 

 

<関連記事>

*村川久夢著『50歳から夢を追いかけてもいい5つの理由』1章無料公開中

*村川久夢プロフィール

*村川久夢著『大丈夫、きっと乗り越えられる~鬱・夫の死を克服した私からのエール~』

*村川久夢さんを知る!<突撃!注目の起業家インタビュー>

       

*----------*

【村川久夢ホームページ】

村川久夢著『50歳から夢を追いかけてもいい5つの理由』✿

 

新著『50歳から夢を追いかけてもいい5つの理由』は、村川久夢が「年だから」「今さら遅いから」など様々な心の制限を外し、他の誰かのためではなく、自分の心が望むことにしたがって生きるようになった軌跡を描きました。私が自分軸で生きられるようになった成長の課程を描いています。

  *電子書籍(Amazon Kindle「読み放題」に登録されている方は0円でご購読いただけます。一般価格は550円です)下記ボタンよりお申込み下さい。

*紙書籍は、¥880(送料¥180)です。下記ボタンよりお申し込み下さい。

 

*----------*

✿心の制限を外す講座✿

 心の制限を外せば、いろいろなことにチャレンジして、人生を楽しめるのです。「心の制限の正体とは何か?どうして心の制限を外すか?心の制限を外せばどんなことが起こるのか?」を9通のメールに込めた「心の制限を外す無料メール講座」を是非お読み下さい。

 

*----------*

*村川久夢ホームページトップには、新著『50歳から夢を追いかけてもいい5つの理由』に頂いた感想を多数掲載しています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA