昔、ある所に、一人の男が住んでいました。男には、大変美しい気立ての良い自慢の妻がおりました。ところがある年、妻は流行り病であっけなく死んでしまいました。男は家に引きこもり、嘆き悲しむ日々を送っておりました。
<行き倒れの娘さん>
そんなある日のことです。夜もふけて男が床につこうとしていた時、入口のあたりでドサッという大きな物音がしました。
男が訝りながら入口の戸を開けると、そこには旅姿の若い娘が倒れていました。娘は青白い顔をして、痩せこけていました。疲れ果てて男の家の前で行き倒れてしまったのでしょう。男は気の毒に思い、娘を家の中に運び入れ、休ませてあげました。
しばらくして気がついた娘は、もう何日も何も食べていないこと、疲れ果てて歩けなくなったことをか細い声で話したのでした。
事情を知った男は、お櫃に少し残っていたご飯に梅干を添えて、娘に食べさせてあげました。
娘は目にうっすら涙を浮かべて、「いいんですか?ありがとうございます」と手を合わせてお礼を言い、ご飯と梅干をとびきりのご馳走を食べるように物凄く美味しそうに食べました。
その姿を見た男は、心がほんわり温かくなるのを感じました。「娘さん、こんな家で良かったら、旅ができるようになるまで、ゆっくり休んでいきなさい」と男は娘に言ったのでした。
<朝ごはん>
翌朝、男は早起きをして、ご飯を炊き、お味噌汁を作り、庭で飼っている鶏の卵を添えて、娘さんの朝ごはんを用意してあげたのでした。
娘さんはまた目にうっすら涙を浮かべ、「いいんですか?ありがとうございます」と言って、美味しそうに美味しそうに朝ごはんを食べました。
<魚釣りと山菜取り>
娘さんが朝ごはんを食べ終えると、男は川へ魚釣りに出かけました。魚を釣った後、帰りの山道では、山菜を摘みました。風が爽やかに吹いていました。
男は娘さんに美味しい魚や山菜を食べさせて元気にしてあげようと思うとワクワクしたのでした。
<久しぶりの美味しい晩ごはん>
男が釣った魚や摘んできた山菜はとても美味しく、その日の晩ごはんは、とても豪勢な晩ごはんになりました。娘さんは、一口一口味わうように晩ごはんを大切に大切に食べました。昨日は弱りきっていた娘さんが、少し元気を取り戻したように見えました。
男は娘さんのそんな様子を眺めていると、とても幸せな気持ちになりました。よく考えてみると、妻が亡くなって以来、男自身が、まともな食事をしていなかったことに気づいたのでした。
<泣かなかった>
男は娘さんを元気にすることに夢中でした。娘さんは日に日に元気になりました。でも、娘さんが、元気になるに連れて、男は複雑な気分になりました。
「このまま元気にならずにずっとこの家に居て欲しい」と思うようになったのです。
考えてみると妻が亡くなって以来、男は毎晩泣きくれていました。妻のいない寂しさ、「こんな寂しい人生がいつまで続くのだろう」という不安に毎晩苛まれていたのでした。でも、娘さんが来てから、娘さんを元気にすることに夢中で、寂しさや悲しさを感じる暇がありませんでした。
<お嫁さんになってくれ>
男は、娘さんにお嫁さんになってくれるように頼んでみようと心に決めました。明日の朝、朝日が昇る時に、娘さんに頼んでみることにしたのです。胸がドキドキして夜、よく眠れませんでした。いけないと思いながら、娘さんの顔をひと目見たくなりました。
どうしても我慢できなくなって、娘さんの部屋の障子を開けると、娘さんの布団には、一匹の子狸がスヤスヤと眠っていたのです!
<悲しみが思い出に変わるまで>
男は驚きました。男の気配で目を覚ました子狸は、もっと驚いた様子で、何処かへ逃げだそうとしました。しかし、逃げ出そうとした子狸は急にぴたりと立ち止まり、振り返って男をじっと見つめたのでした。
その目が、「なぜ知ってしまったのです。なぜ私をずっと旅の娘だと思ってくれなかったのです」と男に訴えているように感じられました。そして、切なそうな様子で、今度は本当にどこかに逃げてしまいました。
男は妻の葬式の日、墓場からの帰り道、罠にかかって苦しんでいる子狸を助けてやったことを思い出しました。あの子狸が、悲しみや寂しさを癒せない男のもとに恩返しに来たのでしょうか?
男は、娘さんが家にいた日のことを思い出しました。娘さんを元気にしてあげたい、助けてあげたい気持ちでいっぱいだった時、男は自分の悲しみや寂しさを忘れていたことに気づいたのです。
「世の中には、娘さんのようにオレの助けを必要としている人が本当にいるかも知れない。こんなオレでも力になれるなら、元気を出して頑張ってみよう」
男はそう心に決めたのでした。もう男の目には涙はありませんでした。妻や娘さんを失った悲しみは、いつしか美しい思い出に変わっていたのでした。
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