封筒

二年ほど前にふと思い立って

私は近所の書道塾に通うようになった。

 

塾の先生は高校の書道教師を

十数年勤めた後、退職して

書道家になった中年の男性だ。

昔の文学青年のような風貌をした、

ちょっといい男だ。

 

先生の指導は真剣で熱心だった。

教室にはサロン風の優雅な雰囲気は、

まるでなかった。

 

初めは、足がしびれ、手に墨がつき、

墨をするのが面倒だった私も、

だんだん書の世界に夢中になり始めた。

 

先生が生活のために始めた書道塾だったが

先生は真剣で

先生の厳しい指導についてくる生徒は、

メキメキと上達して行った。

 

サロン風の雰囲気はない教室だったが、

生徒の大半は女性で、

殆どの女生徒は先生にイカれていた。

かく言う私も、

先生に憧れのような、尊敬のような、

恋心のような、

微妙で複雑な思いを抱いていた。

 

先生の教室は、

授業料の納入も非常にクラシカルで、

封筒に現金を入れて、

先生に直接手渡すのだ。

 

上品な美しい生徒さんが、

「御教授料」と墨痕鮮やかに書いた

品の良いの封筒を

先生に渡されているのを見たことがあった。

なんだか恋文でも渡すような、

重々しい雰囲気があったように思う。

 

入門当時、

私が安い茶封筒に授業料を入れていたら、

先生から「茶封筒がもったいないから、

銀行の封筒でいいよ」と言われた。

だから私は授業料を

ずっと銀行の封筒に入れていた。

 

ある時、銀行の封筒を切らした私は、

たまたま見つけた椿が描かれた

綺麗な封筒に授業料を入れたことがあった。

 

その日、教室に行ったのは私が最初だった。

「先生、これ…」と言って、

先生に椿の封筒に入った授業料を渡した。

 

その時、先生はギョとしたような表情になって

「何これ!?」と言われた。

言われた私も一体何事かと思って驚いた。

 

「あの…授業料です。

銀行の封筒がなかったので…」

と私が言うと、

先生は上がった肩をドッと下げて、

「なんだ!授業料か…」と言われた。

 

先生のあの狼狽は、

何だったのだろう?

そしてドッと下がった肩は

何だったのだろう?

 

今でも私は授業料用に使っていた

銀行の封筒を見ると

「あれは何だったのかな?」

と言う思いと一緒に、

可笑しさがこみ上げて来るのだった。

 

 

・・・・・・・・<完>・・・・・・・・